年が明け、2012年になりました
子どもの頃の自分にとって2012年とは随分先の未来で、「ドラえもん」が量産されるほどではないけど、ものすごく科学技術が進み、世の中も想像もできないぐらい便利になっているだろうと思っておりました(少なくとも空飛ぶ自動車に乗っていると思っていました)。当時は 便利=人間の幸福、という図式を一種のセントラルドグマと信じておりましたが、現実ははたしてどうでしょうか。2011年3月、「便利さを追求した究極のエネルギー」である原子力が制御不能になり、多量の放射能を撒き散らしました。確かに原子力は世の中を暮らしやすいものにしました。でも、それは「きっと事故は起こらない」「核廃棄物ができても、後世の世代がきっと解決してくれる」という何も担保もない「期待」の上に成り立つ、かなり危ういものであることが分かりました・・・。
「人間の手に余る力」が人類に大きな災害をもたらした昨年、二つの考えが私の頭に浮かびました。一つは、「この力は放棄すべきだろう」という考え、もう一つは、「この力を完全に人の制御下におけないのだろうか?」という考えです。前者の考えは私も事故当時に強く感じましたが、時間が経つにつれ、後者の考えも同時に芽生えてきたことに気づきました。そんな中、かつて人類は同様の経験をした(であろう)ということに気づきました。
それは、人類が「火」を使い始めた時のことです。人類が「火」をいつごろから使い始めたかは正確にはわかっておりません(79万年前に火をおこした形跡が発見されたそうですが、自然の火をいつごろから使用し始めたかは不明)。しかし、人類が「火」を道具の一部として使い始めた頃は、「火の制御」は困難を極め、自然や人間を含めた多くの命を奪ってきたことは想像に難くありません。しかし、人類は工夫に工夫を重ね、松明、蝋燭、ランプなどを発明し、現在においてはライター、マッチ、コンロといった「火を十分安全に扱える道具」が広まっております。それでも、このように十分安全に火を扱えるようになった現在においても、毎年日本で4万件の火事があり、さらに火災による死亡者数は1500人にも及んでおります。にも関わらず、「火を使うのは止めましょう」と言ったり、「反コンロ運動」といったムーブメントは起きません・・・。
「後世までツケを残す原発」と「被害のが後世の受け継がれない火災」を単純に比較できないのは分かります。しかし、ここで私が思ったのは「人類の科学技術が相当進み、原子力を火と同等に扱える未来」というものは本当にないのか?という疑問です。世界、そして日本が「原発を諦める」というのは簡単な選択のように思えます。でも、もし、人間の好奇心、探究心に限界がないのであれば、上記のような未来はありなのかもしれません。時間を度外視すれば、少なくとも「子どものころに描いていた2012年」よりは現実味はあるような気がしますが、いかがでしょうか。(しかし、日本のように地震の多い国でも原発を持ってよい、という考えには至っておりませんが・・・)
2012年は「震災」そして「原発問題」からの復興元年であると思います。そして「脱原発」の動きは加速していくと思います。そんな中で、あえて逆の考えを提言することも重要であると思い、新年早々こんなことを書いてみました。まぁ時間があると色々と余計なことを考えてしまうものですね
今年もこんな調子でグダグダ書いていきたいと思います。
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